初めてのインド(2)

1997年のインドとネパールの旅。11月19日に日本を発ち、クリスマスイブの夜に帰国した。あれから、ほぼまるまる8年が経過した計算になる。

なぜこの時期を選んだのかというと、ひとつは、ネパールの天候が安定していて、アンナプルナ連峰の勇姿を拝める確率が高そうだったから。もうひとつは、その年に行われていたワールドカップ最終予選の行方が気になってしょうがなかったから。前大会の予選があった1993年は、ちょうど仕事を辞めてイギリスに語学留学していたので、伝説的な「ドーハの悲劇」に至るドラマを見ることができず、悔しい思いをした。今度こそ、日本代表の出場決定をこの目で見届けてから旅立ちたかったのである。そして11月16日。わが愛する浦和レッズの岡野雅行のゴールで出場が決定するという「ジョホールバルの歓喜」に酔いしれ、その興奮冷めやらぬ19日、初めてのアジア旅という興奮がさらに加わり、もうとんでもなくハイな状態でネパールに向かったのであった。しかしそのほんの数日後には、下痢と高熱にうなされ、お腹も気分も急降下のどん底状態でベナレスに降り立つことになる。

前回のエントリーでちょこっと触れたように、この旅は、一眼レフの海外デビュー戦でもあった。長めの旅に出ることを知った父からオート一眼レフを譲ってもらったことがきっかけであった。じつのところ、一眼レフ自体は高校時代から使ってはいたのだが、ぼくにとってそれはもっぱら趣味であった星を撮るためだけに用いる機械であって、日中のシーンを写す手段とはあまり認識していなかったのである。

加えて、今の自分を知る人には信じてもらえないかもしれないけれど、その当時までは、旅先で写真を撮ることにさほど興味がなく、むしろ、やたらにカメラを構え写真を撮りまくる人間を「バカじゃない、こいつ」と蔑んですらいたのである。旅のシーンはフィルムではなく心に残すもの。それでこそ、旅がカッコよく美しい物語として永遠に記憶の彼方で輝き続けるのだ、と。そういう青い時代もあったのだ(笑

そんな態度でいた自分が初めて一眼レフを携えて初めてアジアを旅したのだから、それなりの平凡な写真しか撮れなかったのはいうまでもない。

たとえば、このガンジス川のガートの写真。

ただなんとなく異国の風景を撮りましたといった印象で、果たして自分が目の前の光景のどこに惹かれ、なにを思ったのかが伝わってこない。いきなり混沌の極地ベナレスに足を踏み入れ、しかも病気で満足に動けず、ただ座り込むしかない自分の呆然とした気持ちを表している、と言えなくもないけれど、少なくとも、現在の自分だったらこのような漠然とした写真は撮らないと思う。

「主題を明確に」、「写真は引き算」、「さらに二、三歩踏み込め」といった写真のイロハ的なレベルの問題なのかもしれない。いかんせん、日中写真(?)に興味がなかったぼくであったので、そんな基礎すら知らず。写真が単なる記録手段ではなく、技術や姿勢、感性によっては「何を見て、どう感じたのか」という「想い」を表現する手段にもなりうることに気づき、その奥深い魅力にはまるようになったのは、ずっとあとになってからのことだった。のちに自身のサイトを立ち上げ、それをきっかけにいろいろな旅行サイトや写真サイトを見ては触発されるようになってからのことだ。その意味で、ぼくにとってネットの影響はとても大きいものだった。もちろん、今もさまざまなサイトやブログから刺激をもらいつつ、「心に何かを訴える写真が撮りたい」と思っている入門者のひとりだ。


これはまあまあ満足に撮れたほう。

主題を明確にということについて言うと、その反対の手法として、超広角レンズで目の前の光景をまるごと捕らえてしまう撮り方や、ロモやホルガやピンホールで、どこにもフォーカスが合っていないように撮る方法もあって、それはそれで面白さを覚える。今度インドに行くとしたら、一眼に加えて、ロモかホルガのどちらかを必ず持っていくだろう。

11件のコメント

  1. あづま川
    2005年10月28日

    >crossroad さん
    旅で写真を撮るのが嫌いな人と大好きな人、
    旅で出会うシーンを大切にしたい、いとおしみたい
    という気持ちでは案外どちらも同じかもしれませんね。
    うん、両方持っていくかもしれない(笑
    ホルガとか、インドだったら高く売れそうだし・・・??

  2. crossroad
    2005年10月28日

    いい話ですね・・。読んでいて、しみじみしました。
    写真については謙遜されていますが、
    きっと思い出の写真なんだろうなと思いました。
    写真に全然興味がないという人と
    写真が好きな人は一見正反対ですが、
    根は同じかもしれないですね。
    > ロモかホルガ、どっちを持っていくんだろうなあ。
    きっと、両方持っていくんだろうなあ・・・(笑)

  3. あづま川
    2005年10月27日

    眞紀さん、コメントありがとうございます。
    美女は美女を呼ぶってことですねぇ。
    何事も基礎は大事ですよね。
    ぼくなんて思いっきり文系人間なので、メカとか技術なんかより、大事なのは想いだろ、
    感受性だろ、精神性だろ!ってつい考えちゃうのですが。
    だからいっこうに技術的に進歩しないんだろうな。
    「旅に“倦む”」の部分、読んだ覚えがあります。
    たまには飽きるくらい旅をするのも長い人生の中では必要かなとは思います。
    大切なのは、そこから何を得て、これからの人生にどうやって活かしていくか、でしょう。

  4. 三谷眞紀
    2005年10月26日

    あづま川さん。美人がいっぱいご来訪で、いいですね。
    私もここに図々しくつらなりますね。
    技術的なことは、きっとある程度だれでも進歩していくんでしょう。
    写真を撮ったことのない私でさえ、息子がカメラを構えたときに「脇締めな、シャッター切ったときに揺れるよ」とか、「どこかに寄っかかると揺れないよ」くらいのことは言います(常識として……)。
    でも、やっぱり、旅の回数も、シャッターを切る回数も、ただ重ねていればいいというものでは、ないんですね。
    おそらく「深夜特急」のなかだと思うけど、旅が長くなりすぎると、旅に飽き、「旅に“倦む”」ことがある、と書いてありました。
    そんな感覚だけはごめんです。
    通常の社会人として暮らしていたら、そんな感覚にまで陥る危険性はないような気もするけど……
    心を熟成というのはいい言葉ですね。もらった!←ウソ!

  5. あづま川
    2005年10月25日

    想いを表現するといっても、それは別に特殊なことではなく、「いいな」と感じたシーンを素直に撮るっていうだけなんです。ただ、何を「いいな」と感じるかは人によって違うし、「いいな」と感じる深さもその人の感性や知識や経験によって違ってきますよね。だから、想いが伝わる写真を撮るには、表現テクニックもさることながら、もっといろいろなことを学び、心を熟成させて、自分の「想いの質」を高めていく必要があるなーってこのところ痛感しています。

  6. sesami
    2005年10月24日

    ぐっとくる写真を撮っている人たちの写真が、なにゆえにぐっとくるのか、これを読んで「!」とよーくわかりました。
    私は写真であまり思いを表現しようと思ったことがなかったので、それなりの写真しか撮れないんですよね。旅行時に限らず、どちらかというと写真は記録手段としてとらえていることが多いかも。
    記録としての写真も、移り変わり行く人や街など、年月を見える形でとどめるという意味で時には大きな価値があると思いますが、「思いを表現する写真」もいいですよね。これからもぐっとくる写真バシバシお願いします。
    ※お父様もカメラマニア?だったのですね。カメラ小僧(失礼)の法則、ここにも発見!?

  7. あづま川
    2005年10月23日

    昔は、旅先で写真を撮るという行為が好きになれず、旅に出ても「証拠写真」を何枚か撮ってくるだけでした。感動は心に刻んだのだからそれで十分だと。
    いまも「心に刻む」のが基本だと思ってますが、昔と違うのは、写真は写真で、自分がそのとき思ったこと感じたことを表現するためのまったく別の手段だと素直に考えられるようになったことです。
    記録についても、そのとおりですよね。ぼくも旅行記を公開するようになってから、そういう「役に立つ」写真も撮るようになったし、それはそれで、面白いです。デジカメが寄与している部分もたしかに大きいですね。ブログに旅&食レポを連載できるのも、便利なデジカメのおかげですし。大量の写真を気軽に撮れる時代になりましたから。でも、そういう記録写真じゃない、自分の想いを刻む写真は、一枚一枚大切に撮っていきたいです。

  8. ハナミズキ
    2005年10月22日

    あづま川さんはずっと昔から「旅写真小僧」(失礼)だったのだと思っていました。
    わたしも旅を始めた頃は、あづま川さんと同じように青いこと「心に刻めばいいじゃん」を思っていて、カメラは使い捨てを余して帰ってくるという人でした。
    その後、旅人に影響されて旅写真に目覚め(?)一眼レフを持つようになったわけですが、当初の写真を見たら「行ったところの記録程度だなあ」というのが多いんですよね。何かを残したかったのだろうけれど。
    今でも未熟だけど、いろんな写真やサイトをみたりして、自分の視点でその場所を伝えられる写真をとれるようになりたいなあと思っております。
    ところが最近、自分のブログでちょっと前の旅を書いたりしていたのですが、「記録」も大事だなあとふと思いました。naomiさんおっしゃるバス停しかり、駅しかり。
    人に伝えるため、旅の情報の一つとしての写真もあるかなと。デジカメというツールもあることだし、今度の旅からはいろんな記録も収めてこようかなと思い直すようになりました。

  9. あづま川
    2005年10月22日

    >naomiさん
    記憶と記録の使い分け・・・そうかもしれませんね。
    ぼくも昔は、写真なんてただの記録と記念でしょ、としか思ってませんでした。
    文章と同じように、自分の想いを表現することもできるんだと気づいてから
    撮るのが面白くなって、気がついたらこんな感じになっちゃいました。
    記録写真も昔はあまり撮らなかったのですが、旅行記を作成するようになってから
    これもガンガン撮るようになって・・・昔のオレがいまの姿を見たらなんて言うだろう(^^ゞ
    naomiさんが意識的に使い分けているのは、ちゃんと伝わってきますよ。
    記録写真と記憶写真、どちらからも刺激を受けまくってます。
    >sakikoさん
    一眼レフを使い出したのが転換点っていうのはよくわかります。
    撮ることの面白さや奥深さがわかってくるし、もっといい写真を撮りたいっていう
    気持ちもおのずと湧いてきますから。
    自分の感じたことが伝わるような写真、理想ですよね。
    カメラを持ってたくさん旅をしていきたいです。

  10. sakiko
    2005年10月22日

    私もあづま川さんの写真に刺激を受け続けている一人ですが・・。
    考えてみれば当たり前のことですが、だれにでも写真を「自分が感じたこと」を表現する手段にしようとしたきっかけってあるのですよね。
    なんだか、あづま川さんにもそんな時があったなんて、不思議な感じがしてしまいました。
    私も、初めて一眼レフを持って旅行に行ったのが、写真に対する考え方が変わった転換点でした。
    つい最近のことなので、私はひよこの前のたまごですが^^;
    言葉で補うことなく、自分の感じたことが伝わるような写真が撮れるように、いっぱい写真を撮りに、いっぱい旅行に出かけたいです。

  11. naomi
    2005年10月22日

    記憶と記録の違いでしょうか…。
    私の場合ですが、写真に興味が無い時は、単なる「記録」としてカメラを使ってました。
    今は、自分の中では「記録と記憶」は使い分けて撮っているつもりです。
    それが見る側に伝わっているかは置いておいて(笑)
    バス亭1つ撮る時も、「バス停の在り方を記録として撮る」のと「バス亭を通して何かを伝えたくて撮る」のとでは絞りも構図も自ずと違ってきます。
    ただそれが見る側に伝わっているかは置いておいてなのですが(笑)
    まだまだひよっこです。

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