「横谷宣写真展」 ― 心象のざわめき ―

画廊に足を踏み入れ、すぐそばに展示されていた一枚のプリントと対峙した瞬間、不思議な世界に吸い込まれていくのを感じた。初めて目にする世界。が、圧倒されているわけでも、拒絶しているわけでも、畏怖しているわけでもない。むしろ非常にやさしく、懐かしい。遠き彼の地なのか、夢の中の世界なのか、あるいは、自分の心に眠る心象風景なのか。
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御茶ノ水のギャラリー「bauhaus」で開催中の横谷宣写真展「黙想録」と、その個展に合わせて開かれた写真評論家の飯沢耕太郎氏との対談に足を運んできた。
http://gallery-bauhaus.com/090107_yokotani.html
横谷宣さんという写真家を知ったきっかけは、ぼくが敬愛する作家でもあり翻訳家でもある田中真知さんが昨年刊行した著書『孤独な鳥はやさしくうたう』に収録されている「十年目の写真」だった。

外見はテロリスト風の元ファッションフォトグラファー。今はその地位を放擲し、改造に改造を重ねた自作レンズをはめ込んだNIKON FEを持ってアフリカを旅している。ピントは一点にしか合わず、周囲はぼける。それが彼の目で見た光景をもっとも素直に表現するレンズなのだという。が、彼は自分の撮った写真を1枚も所持していない。いったいどんな写真を撮るのだろう・・・。謎を残したまま、田中さんはカイロの安宿で横谷さんと別れる。10年後。1枚の写真が田中さんの元に届く。そこに写っていたものは……。

この一編を読み、最後のページに掲載されている、何が写っているのか判然としない、ぼんやりとした、でも奇妙に惹きつけられる写真を見たとき、この写真家のプリントを一度この目で見てみたいな、と漠然と思った。なぜだろう。ぼくが最初に手にした一眼レフがほかならぬNIKON FEだったせいかもしれない。また、HOLGAというピントもろくに合わないトイカメラで異国の光景を撮るのが好きで、いわゆる「普通の」カメラよりもこいつで撮った写真の方が心象が素直に表現されている、と感じることがときどきあり、そこに(レベルは違いすぎるけれど)共通する何かを感じたからかもしれない。

knsg_090119a.jpg実際に横谷さんの作品と対峙してみて、ぼくのそんな親近感など無惨に砕け散ってしまうほどの技量と姿勢における遠いレベルの差を痛感させられたのは当然ではあるが、同時に、自分と近しい何かを感じたのも確かだった。自分の奥底の心象がざわめく感覚。

盛況となった横谷さんと飯沢耕太郎氏との対談は驚きの連続だった。想像を絶する旅の仕方、日没前後の美しい光だけを探すという撮影スタイル、カルバミド調法という聞いたこともない技法、現像液や印画紙へのこだわり、1枚を完成させるのに最低半年はかかるという話。それもこれも、自分の心に渦巻くイメージを表現するために必要なのだという。

対談後、残りの作品を鑑賞する。撮影場所は、カンボジア、インド、モロッコ、イラン、スリランカなど。しかし、横谷さんによれば、撮影地を明記するのには抵抗があったという。自分の心にうごめく漠然としたイメージをどうやって表現するかが大切であって、場所はさして重要ではないのだ、と。

心の中のイメージを一枚のプリントとして収斂・結実させることにそれこそ心身を捧げている横谷さん。これが初めての個展である。無名だった彼がこれをきっかけとして有名になっても、その一途な姿勢は変わらないだろうし、雑誌やウェブに載ったとしても絶対に彼の魂のプリントの深みはわからない。機会があったらまたギャラリーを訪れて改めてじっくり鑑賞したいと思っている。横谷さんの心のイメージを少しでも探るためにも、それが自分の心象へと潜行していくことにもつながるような気がするから。写真好き、旅好きのみなさまも、ぜひ一度足を運んでみてください。

ところで、対談終了後に横谷さんをはじめとする関係者の飲み会に運良く参加させていただいた。その席で、なんとうれしいことに、田中真知さんと翻訳のお話しを伺うことができた。おまけにサインもいただいてしまった! 感激の一言。ちなみに、その飲み会では隣に『旅行人』の蔵前仁一さんの奥様である小川京子さん、向かいに田中真知さんの奥様である裕子さんという、二人の麗しき女性に囲まれる幸運に恵まれた。にもかかわらず、ほとんど会話らしい会話ができず。あいかわらずシャイなワタクシなのであった。

横谷さんに関する詳しい記事と田中真知さんの「十年目の写真」は、田中真知さんのブログで読めます。
勝手にリンク張っちゃいます。

http://earclean.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-9dac.html
そしてこの写真展の開催を知らせてくれた三谷眞紀さんの渾身のレビュー
http://apakaba.exblog.jp/10544196/

『ムスリムの女たちのインド』

さる2日、著者であり、写真家でもある柴原三貴子さんのスライド上映会に足を運んできた。

『ムスリムの女たちのインド』は、マクドゥミアという小さな村に住むムスリム一家とともに四季を過ごした著者が、その姉妹や周囲の女性たちの暮らしぶりを同じ女性の視点から綴ったものである。

著者を知ることとなったきっかけは、「あぱかば・ブログ篇」の三谷眞紀さんのブックレビューだった。インドのイスラムの女性というテーマへの興味、感動で胸が詰まったという三谷さんの感想、このレビューの直後に朝日新聞の書評欄でこの本が取り上げられたことなどから、これは「読め」ってことだなとピンとくるものがあった。ちょうど著者ご本人が書き込んだコメントからスライド上映会のことを知り、会場で書籍も購入できると聞いたので、日曜の午後、真夏に戻ったのではと思わせる暑さのなか、渋谷の会場に出かけた。ちなみに、この上映会は、「ナマステ インディア フェスティバル 2005」のプログラムのひとつとして開催されたもの。上映会の前には、代々木のメイン会場でインド料理を堪能し、腹ごしらえをしておいたのは言うまでもない。

上映会では、現地の村人の素朴な歌声をバックに、村の日常を切り取ったスライドが心地よいペースで流された。その後、柴原さんから現地での体験談をいろいろうかがうことができた。

スライドを見て感じたのは、女性が女性にしか見せない柔和で温かい表情や、女性にしか撮れない家庭風景というものがあるのだなあ、ということ。これは、イスラム圏を旅したことがある男性ならよくわかると思う。上映後のお話の中で印象に残ったのは、同じ村の中で、イスラム教徒とヒンズー教徒の家族が仲良く共存し、助け合って生きているということ。たとえば、肉を食べるイスラム教徒は、菜食主義者の多いヒンズー教徒に気を遣い、肉を料理するときは普段開け放たれているドアを閉め切るし、また、肉を持ち運びするときもヒンズー教徒の目に入らないように工夫しているという。

上映会のあと、念願の御著書を購入。その場で直筆サインとポストカードをいただいた。

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家に帰って、ひと仕事終えたあとの深夜、購入した本を静かに開いてみた。感じたことはいろいろあるけれど、それは三谷さんの感動的なレビュー記事の中でほぼ語り尽くされているので(ぜひレビューを読んでみて)、ここではひとことだけ。この本の魅力は、異なる言葉と文化と宗教の中に飛び込んでいった著者が、自らの驚き、発見や、家族同様に暮らした姉妹それぞれの人生の断片 ―結婚、出産、育児、死別といった出来事― を丹念に綴っていることにある。それは確かなのだけど、なんといっても最大の魅力は、そうした断片をていねいに積み重ね、一本の糸を通し、ひとつの美しい輪を完成させていくことで、宗教や習慣の違いを越えて私たちが共有する感情と、時代を超えて変わらない大切な何かを鮮やかに浮かび上がらせている点にあるのだと思う。きっとそれは、余計なものをそぎ落とした簡素な村の暮らし、霊にまつわる数々の不思議な見聞、もう一人の自分が自分を見下ろすという体験などを経てきた著者だからこそ描きえたものなのだろう。

「村で生きるさまざまな世代の女性と過ごした季節は、小さな日常をていねいに重ねてゆく美しさと、その重なりの先にしか見えない、かすかに光る自由があることを教えてくれた」

著者のあとがきの一節が心に響いた。

ほかのブロガーからもリクエストがあったように、こんどはぜひ写真集を出していただきたいというのが、希望のひとつ(もちろん、それが大変なことは重々承知していますが)。そして、機会があったら、柴原さんが体験談や世界観について直接お聞きしてみたいというのがもうひとつ。後者のほうは、近々ひょっとしてひょっとしたら、という見込みもあり、楽しみ。


ムスリムの女たちのインド

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