南インドはおいしい(5) ゴアでモモ

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ゴア滞在中、カラングートにおいしいチベット料理店があると聞いて足が向いてしまったのは、すでにそのとき心の中に、ネパール再訪、さらには念願のラダックへという彼の地への旅の想いを秘めていたからかもしれない。いや、その想いは確実にあった。

カラングートのビーチでサンセットを見届けると、ガイドブックを頼りにそのレストランへと向かった。ビーチから延びる道の途中に、狭い脇道を見つけた。よく注意していなければ見過ごしてしまうほど目立たない路地だ。奥へと進んでいくと、レストラン「Tibetan Kitchen」はあった。まだ客はまばらだ。

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しばらくして、テーブルにおいしそうなモモとスープが湯気とともに置かれた。モモにもバリエーションがあって、一般にチベットのモモは餃子型、ネパールのモモは団子形である。このモモは団子形だからチベットというよりネパール風か。「中は熱いから気をつけて」。去り際にウェイターが注意してくれた。一口かじる。たしかに熱い! アツアツの肉汁が口いっぱいに広がり、ホクホクする。小籠包のようだ。シアワセ。

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デザートはストロベリーアイス。チベット料理店でこんなオサレなデザート出していいのかという疑問もちょっぴり湧いてくる、というか、そもそもなぜそんなデザートを頼むのかと自分につっこみたくなったが、甘い物には目がないので仕方がない。そこにそれがあれば頼みたくなるのが自然の摂理というもの。かたいことはいいっこなしで。なんといってもここはゴア。世界中から旅行者が集まってくるビーチ。メニューも味も自然と洗練さに磨きがかかるんだろうね。なにはともあれ、甘い物を味わえてシアワセ。

ゴアでホーリー(3)

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同じこぶ牛でも、白牛のナンディは鮮やかな色粉でお化粧されているのに、黒牛や茶牛はホーリー中でも素のまま、どこ吹く風の表情でのんびり横たわっている。かたわらの看板に書かれた「プログレッシブトランス」も、四千年の悠久の歴史を内包した彼らには、風に舞う一粒の砂のような存在。いっさいを超越した、悟りを得たものだけが取りうる悠然とした態度。この態度こそ、牛萌え心をおおいに刺激して止まないのである。

さまざまな民族や生物が同一の空間に共存しつつ、それぞれが異なる物差しで異なる時間を生きている。ゴアトランスと牛の対比は、そんなインドの縮図を見ているようであり、そこではもうプログレッシブ(進歩的、前衛的)なんていう言葉は実質的な意味を失っている。何かをプログレッシブと呼ぶためには、明示黙示を問わず、特定の尺度と時間軸がマジョリティーによって認知され、共有されていることが前提となるからだ。そしてたいていの場合、そのマジョリティーとは欧米や日本など先進国の人間だ。

が、その先進国ですら、数十年前ならいざ知らず、確固たる価値観を喪失しつつある現代においては、プログレッシブという概念は輝きを失ってしまった。ただこの場所、ヒッピー時代の残滓がかすかに漂うアンジュナでは、この言葉が頼りなげではあるがいまだに光を宿し、その光に引きつけられるようにやってくる者もいる。ある種の旅行者は、自分の国で崩れつつある尺度に見切りをつけ、オルタナティブな価値観と時間軸を求めてインドを訪れる。ある種の旅行者は、自分の国でかつて甘美な輝きを放ち、今ではすっかり褪せてしまったオルタナティブとしての価値観を想起し、なつかしむためにゴアを訪れる。

ところで、色粉をつけられた愛機MZ-3だけど、その後再びホーリー戦線に復帰し、アンジュナとカラングートのビーチで獅子奮迅の活躍をしてくれた。レイブはというと、上の写真のようなパーティーの看板こそ出ていたものの、屋外のレイブは開かれる雰囲気が見られなかった。夜まで残るのはやめて、この日の夕方、ハンピ行きの長距離バスに乗り込んだ。3月11日。ちょうど1年前のことだ。

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