マレー半島を北上せよ(9) ポルトガルへ架かる橋(後)

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幻惑ではなかった。
午前中、セントポール教会の丘から望んだ海が、今やすぐ目の前に広がっていた。
シンガポールに降り立って以来、そしてマラッカに来てから初めて間近に向き合う海。
泳ぐ人もいない、行き交う漁船もない。波の音と太陽の光だけが静かに漂う。
寂しさと安らかさと懐かしさをかきたてられる。
ああ、この感じ、と思った。ようやくポルトガルらしさが出てきた。
左手の海岸から、木造の古びた桟橋が、海に向かってまっすぐに延びていた。
導かれるように、その頼りなさげな桟橋に足を乗せると、一歩一歩、確かめるように前へと進む。

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海岸が後ろに去り、次第に海と空と光だけの世界に囲まれていく。
このままずっと海の上を渡って行けたら……。
そんなはずもなく、しばらく歩くと先端にたどり着いた。

残念、そして安堵。

足の下から頭の上まで、視界には海と空のふたつしかない。
そのふたつを、視野いっぱいにゆるやかな弧を描きながら横切る水平線が分かっている。
マラッカの外れにあるポルトガル地区の海岸から始まるこの古くて細い橋は、目には見えないけれども、
あの水平線の遙か彼方へと延び、ポルトガルへと架かっているのではないか。
先端でたたずんでいるうちに、そんなイメージがふと湧いてきた。

橋はマラッカ海峡を抜け、インド洋を横切り、昨年訪れたイエメンのアデン、モカの鼻先を通過する。
紅海から地中海に入り、チュニジアのマハディア、シチリアのシラクーザ、ジブラルタル海峡を抜け、
大西洋へ。一昨年訪れたモロッコのエッサウィラを通って、ユーラシアの果て、ポルトガルへ。
渡りきるとそこは、ロカ岬。いや、やはりまだ訪れたことがない地の果ての町、サグレスがいい……。

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RICOH GR21 + ACROS 100 (カラースキャン、3枚とも)

いっとき雲に隠れていた太陽が、また顔をのぞかせ始めた。海面がぱっと輝き始める。
白昼夢は終わった。桟橋を引き返すことにした。これ以上太陽にさらされたら確実に熱中症になってしまう。
タクシーを降りた広場へと引き返すと、向かいにある「レストラン・ド・リスボン」へ入ってみる。
あいかわらず眠っているように静かだったが、営業はしているようだ。
なにはなくとも、冷たいビールを。

ああ、もう、これさえあれば。

マラッカの外れにあるポルトガル地区。そこで最後に出会ったのは、遠きポルトガルへとつながる
細くて古い橋だった。物理的には頼りなく、途中で終わっているけれど、胸の中ではしっかりと
彼の地へとつながった。いつかあの橋を渡って、まだ見ぬ最果ての町サグレスを目指す旅をしたい。
そのはずれにある、眠ったように静かな店で、サグレスビールで乾杯する。その日が来ることを
祈りつつ、今はタイガービールを注いだジョッキを傾ける。

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マレー半島を北上せよ(8) ポルトガルへ架かる橋(前)

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ポルトガル人の末裔が住むという地区がマラッカの片隅にあることを旅立つ直前に知ったとき、
ここは必ず訪ねてみようと思った。「夕陽を眺める」と並んで、「大航海時代の面影を追う」
というのが、マラッカでの目的らしい目的だったからだ。

旧市街の路地を探索し、海南鶏飯を食べ終えたのは午後2時過ぎ。そのポルトガル居住区を
訪れることにした。最も暑く、陽射しの強い時間帯だ。町の中心、オランダ広場まで歩いた
ところで、これ以上自分の足で進む気力は失せ、タクシーをつかまえた。

「もうすぐ着きますよ。でもねぇ、こんな真っ昼間に来ても面白くもなんともありませんよ。
夜になればフードセンターはにぎわうのですけどね。そうそう、タクシーは1台も待っていませんから、
帰りはずっと向こうの大通りまで歩いてバスを捕まえるといいですよ」

タクシーが去ると、そこはぼく一人だけだった。
ドライバーが教えてくれたとおり、目の前にはフードセンターがあり、ポルトガルの首都の名を冠した
レストランを見つけることができたが、昼下がりの今は人の気配とてない。
反対側の、民家が並んでいる方を目指して歩きだす。
おそらく、あそこがポルトガル地区だ。

陽射しがあまりにも強烈だ。幻惑と目眩の感覚。

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実際にたどり着いてみると、ポルトガル居住区と言われているその場所は、郊外の他の地区と
さほど変わりのない、いたって普通の住宅街のように見えた。確かに、家の造りや手入れの
行き届いた庭、柵、装飾などに南欧風、カトリック的な要素は見受けられる。が、それもよくよく
観察すればのことであって、ここがポルトガル地区だと知らなければ、さしたる関心も払わずに
通り過ぎてしまっていたに違いない。

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しばらく歩き回ってみたが、強く目を惹きつけられるようなポルトガル的なものは見つからなか
った。期待していただけに、失望は否めなかった。

そして、この午後の暑さとまばゆさ。

さっきタクシーを降りた広場まで戻って、リスボンとかいうあの眠っているようなレストランで
ゆっくりビールでも飲もう。そっちのほうがポルトガルの雰囲気を味わえるかもしれない。
この誘惑には勝てそうになかった。が、あともう少しだけと思い直し、路地を反対の方向に
歩いてみることにした。

住宅がまばらになり、わずかな木陰も消えた。南国の太陽が、いよいよ容赦なく全身に
降りかかってくる。
やっぱり、レストランだ。ビール、ビール。そう思いかけたそのとき、遠くに、ある存在を認めた。
まばゆい陽光と真っ白な雲の下、ゆるやかに、くっきりと描かれる弧。
幻惑か。それとも目眩のせいか。
足取りが自然と軽くなった。

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