幻惑ではなかった。
午前中、セントポール教会の丘から望んだ海が、今やすぐ目の前に広がっていた。
シンガポールに降り立って以来、そしてマラッカに来てから初めて間近に向き合う海。
泳ぐ人もいない、行き交う漁船もない。波の音と太陽の光だけが静かに漂う。
寂しさと安らかさと懐かしさをかきたてられる。
ああ、この感じ、と思った。ようやくポルトガルらしさが出てきた。
左手の海岸から、木造の古びた桟橋が、海に向かってまっすぐに延びていた。
導かれるように、その頼りなさげな桟橋に足を乗せると、一歩一歩、確かめるように前へと進む。
海岸が後ろに去り、次第に海と空と光だけの世界に囲まれていく。
このままずっと海の上を渡って行けたら……。
そんなはずもなく、しばらく歩くと先端にたどり着いた。
残念、そして安堵。
足の下から頭の上まで、視界には海と空のふたつしかない。
そのふたつを、視野いっぱいにゆるやかな弧を描きながら横切る水平線が分かっている。
マラッカの外れにあるポルトガル地区の海岸から始まるこの古くて細い橋は、目には見えないけれども、
あの水平線の遙か彼方へと延び、ポルトガルへと架かっているのではないか。
先端でたたずんでいるうちに、そんなイメージがふと湧いてきた。
橋はマラッカ海峡を抜け、インド洋を横切り、昨年訪れたイエメンのアデン、モカの鼻先を通過する。
紅海から地中海に入り、チュニジアのマハディア、シチリアのシラクーザ、ジブラルタル海峡を抜け、
大西洋へ。一昨年訪れたモロッコのエッサウィラを通って、ユーラシアの果て、ポルトガルへ。
渡りきるとそこは、ロカ岬。いや、やはりまだ訪れたことがない地の果ての町、サグレスがいい……。
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いっとき雲に隠れていた太陽が、また顔をのぞかせ始めた。海面がぱっと輝き始める。
白昼夢は終わった。桟橋を引き返すことにした。これ以上太陽にさらされたら確実に熱中症になってしまう。
タクシーを降りた広場へと引き返すと、向かいにある「レストラン・ド・リスボン」へ入ってみる。
あいかわらず眠っているように静かだったが、営業はしているようだ。
なにはなくとも、冷たいビールを。
ああ、もう、これさえあれば。
マラッカの外れにあるポルトガル地区。そこで最後に出会ったのは、遠きポルトガルへとつながる
細くて古い橋だった。物理的には頼りなく、途中で終わっているけれど、胸の中ではしっかりと
彼の地へとつながった。いつかあの橋を渡って、まだ見ぬ最果ての町サグレスを目指す旅をしたい。
そのはずれにある、眠ったように静かな店で、サグレスビールで乾杯する。その日が来ることを
祈りつつ、今はタイガービールを注いだジョッキを傾ける。