蒼穹のラダックから下界へ。
厚い雲を突き抜けて降り立ったデリーは、雨期の中にあった。
湿りを帯びた空気が身にまとわりつく。
アジアに戻ってきたんだ。そんな感じ。
1-3枚目
RICOH GR1V, FUJI NEOPAN 400 PRESTO
4枚目
PENTAX K-7, FA24-90mm
ゴアでホーリー(3)
同じこぶ牛でも、白牛のナンディは鮮やかな色粉でお化粧されているのに、黒牛や茶牛はホーリー中でも素のまま、どこ吹く風の表情でのんびり横たわっている。かたわらの看板に書かれた「プログレッシブトランス」も、四千年の悠久の歴史を内包した彼らには、風に舞う一粒の砂のような存在。いっさいを超越した、悟りを得たものだけが取りうる悠然とした態度。この態度こそ、牛萌え心をおおいに刺激して止まないのである。
さまざまな民族や生物が同一の空間に共存しつつ、それぞれが異なる物差しで異なる時間を生きている。ゴアトランスと牛の対比は、そんなインドの縮図を見ているようであり、そこではもうプログレッシブ(進歩的、前衛的)なんていう言葉は実質的な意味を失っている。何かをプログレッシブと呼ぶためには、明示黙示を問わず、特定の尺度と時間軸がマジョリティーによって認知され、共有されていることが前提となるからだ。そしてたいていの場合、そのマジョリティーとは欧米や日本など先進国の人間だ。
が、その先進国ですら、数十年前ならいざ知らず、確固たる価値観を喪失しつつある現代においては、プログレッシブという概念は輝きを失ってしまった。ただこの場所、ヒッピー時代の残滓がかすかに漂うアンジュナでは、この言葉が頼りなげではあるがいまだに光を宿し、その光に引きつけられるようにやってくる者もいる。ある種の旅行者は、自分の国で崩れつつある尺度に見切りをつけ、オルタナティブな価値観と時間軸を求めてインドを訪れる。ある種の旅行者は、自分の国でかつて甘美な輝きを放ち、今ではすっかり褪せてしまったオルタナティブとしての価値観を想起し、なつかしむためにゴアを訪れる。
ところで、色粉をつけられた愛機MZ-3だけど、その後再びホーリー戦線に復帰し、アンジュナとカラングートのビーチで獅子奮迅の活躍をしてくれた。レイブはというと、上の写真のようなパーティーの看板こそ出ていたものの、屋外のレイブは開かれる雰囲気が見られなかった。夜まで残るのはやめて、この日の夕方、ハンピ行きの長距離バスに乗り込んだ。3月11日。ちょうど1年前のことだ。