マレー半島を北上せよ(10) マラッカの夕陽

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家並みと人の長く濃い影が路地をすっかり覆うようになった午後6時半。
チャイナタウン散策を切り上げ、オランダ広場のキリスト教会の前を通り過ぎ、
セントポール教会が立つ丘へと急ぐ。

石段をひとつ上るたびに、視界が少しずつ開けていく。
街並みが下方に遠ざかり、青い空の面積が広がり、やがて海が姿を見せ始める。
そして、海を輝かす夕陽が現れる。

ポルトガル居住区にとどまり、あの古い桟橋の上から夕陽を眺めるのも魅力的に思えたけれど、
マラッカの夕陽はこの丘から眺めようと決めていた。

頂上にたどり着き、教会のファザードと向かい合い、内部に入る。
ふきさらしのがらんとした雰囲気は午前中に訪れたときと同じだが、受ける印象は明らかに違う。
光の射す角度の違いのせいだ。

空高く強烈な輝きを放っていた太陽が、いまは赤みを深めつつマラッカ海峡に沈みゆこうとしている。
往時の教会ならば、海の上の夕陽がファザードの窓のステンドグラスを鮮やかに照らし出し、
薄暗いこの堂内に荘厳な光が射し込んでいたのだろう。
いまは、その同じ夕陽を、ガラスも装飾もない窓のひとつがそのまま静かに映し出している。

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教会を出る。
敷地では、少なくない人が西側の柵に沿って並び、太陽が沈むのを待っている。
その列に加わる。
夕陽はいったんは雲に隠れたものの、最後の最後に真っ赤なまん丸の姿を一瞬だけかいま見せて、
水平線の彼方へと静かに消えていった。

これで思い残すことはない、明日はバトゥ・パハに行こう。
丘を下っていると、突然、大きな呼び声がどこか遠くから響いてきて、足を止めた。
聞き覚えのある節回しと文句。アザーンだった。
高揚感を伴うざわめきが心を包み込む。

アザーンを耳にするときほど、自分が異境を旅していると実感する瞬間はあまりない。
ポルトガル居住区の桟橋ではポルトガルへと想いが飛び、いまは懐かしきアザーンの調べに
心がアラビアへと飛んでいった。しかし、ここはヨーロッパでもアラビアでも、マグレブでもない。
自分はいま、まぎれもなく東南アジアを旅している。さまざまな民族や文化、宗教が混在する
マレー半島を。

不思議な異境感覚に包まれながら、丘の中腹に立ちつくしていた。
見下ろす街並みに、灯がともり始めていた。

マレー半島を北上せよ(9) ポルトガルへ架かる橋(後)

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幻惑ではなかった。
午前中、セントポール教会の丘から望んだ海が、今やすぐ目の前に広がっていた。
シンガポールに降り立って以来、そしてマラッカに来てから初めて間近に向き合う海。
泳ぐ人もいない、行き交う漁船もない。波の音と太陽の光だけが静かに漂う。
寂しさと安らかさと懐かしさをかきたてられる。
ああ、この感じ、と思った。ようやくポルトガルらしさが出てきた。
左手の海岸から、木造の古びた桟橋が、海に向かってまっすぐに延びていた。
導かれるように、その頼りなさげな桟橋に足を乗せると、一歩一歩、確かめるように前へと進む。

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海岸が後ろに去り、次第に海と空と光だけの世界に囲まれていく。
このままずっと海の上を渡って行けたら……。
そんなはずもなく、しばらく歩くと先端にたどり着いた。

残念、そして安堵。

足の下から頭の上まで、視界には海と空のふたつしかない。
そのふたつを、視野いっぱいにゆるやかな弧を描きながら横切る水平線が分かっている。
マラッカの外れにあるポルトガル地区の海岸から始まるこの古くて細い橋は、目には見えないけれども、
あの水平線の遙か彼方へと延び、ポルトガルへと架かっているのではないか。
先端でたたずんでいるうちに、そんなイメージがふと湧いてきた。

橋はマラッカ海峡を抜け、インド洋を横切り、昨年訪れたイエメンのアデン、モカの鼻先を通過する。
紅海から地中海に入り、チュニジアのマハディア、シチリアのシラクーザ、ジブラルタル海峡を抜け、
大西洋へ。一昨年訪れたモロッコのエッサウィラを通って、ユーラシアの果て、ポルトガルへ。
渡りきるとそこは、ロカ岬。いや、やはりまだ訪れたことがない地の果ての町、サグレスがいい……。

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RICOH GR21 + ACROS 100 (カラースキャン、3枚とも)

いっとき雲に隠れていた太陽が、また顔をのぞかせ始めた。海面がぱっと輝き始める。
白昼夢は終わった。桟橋を引き返すことにした。これ以上太陽にさらされたら確実に熱中症になってしまう。
タクシーを降りた広場へと引き返すと、向かいにある「レストラン・ド・リスボン」へ入ってみる。
あいかわらず眠っているように静かだったが、営業はしているようだ。
なにはなくとも、冷たいビールを。

ああ、もう、これさえあれば。

マラッカの外れにあるポルトガル地区。そこで最後に出会ったのは、遠きポルトガルへとつながる
細くて古い橋だった。物理的には頼りなく、途中で終わっているけれど、胸の中ではしっかりと
彼の地へとつながった。いつかあの橋を渡って、まだ見ぬ最果ての町サグレスを目指す旅をしたい。
そのはずれにある、眠ったように静かな店で、サグレスビールで乾杯する。その日が来ることを
祈りつつ、今はタイガービールを注いだジョッキを傾ける。

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